第7回 悠々会  その1

今回のテーマは「旧日光街道栗橋宿周辺を散策」です。
東部日光線の栗橋駅ヲスタート、顕正寺・浄信寺・深廣寺・栗橋関所跡・
八坂神社・経蔵院・伝靜御前の墓と廻り、栗橋駅で解散。

 

栗橋宿:日光街道の日本橋から数えて7番目の宿場。
    元和2年(1616)に正式な宿場が開設された。
    以降、利根川を渡る渡船場と関所を備えた宿場として栄えた。
    尚、昭和22年(1947)9月に関東全域を襲ったカサリン台風により
    利根川堤防が決壊し、当地区でも甚大な被害を受けた。
    旧街道沿いの電柱に当時の水位が表示されている。

 

 

顕正寺:浄土真宗大谷派の寺で、常陸国幡谷城主・幡谷信勝が創建。
    信勝は出家して親鸞聖人の弟子となり、唯信と名を改めた。

 

浄信寺:浄土宗の寺で、戦国時代の永正2年(1505)頃に創建された。
    本尊は阿弥陀如来像。
    墓地には「梅沢太郎右衛門の墓」がある。
    元和8年(1622)徳川2代将軍秀忠の
    日光東照宮の日光東照宮参詣の際、暴風雨の為利根川が満水し、
    将軍の渡橋が危うくなった。
    太郎右衛門は人夫を率いて水中に入り、懸命に橋の崩壊を防いだ。
    秀忠は、これに感激し、貞宗の名刀、日の丸軍扇とお墨付きを与えた。

 

深廣寺:浄土宗の寺で、元和元年(1615)宿場開設の功労者・並木五郎平が創建。
    樹齢300年を超える松の大木の下に21基の「六角名号塔」がある。
    高さ約3.6mの供養塔で「南無阿弥陀仏」と刻まれている。

| - | 13:24 | comments(0) | trackbacks(0) | 『ビルドクター』福田紀之
藤崎の富士講  その2

富士塚は、溶岩などで覆われた富士山を模した
小高く盛り上げた山上の人工物

富士塚の始まりは、安永8年(1779)江戸高田の造園師藤四郎が、
師の食行身禄を追悼するため、
形として残るものを残そうと考え富士塚を築造。


藤崎の富士塚は、習志野市藤崎1-13の畑の中にある。
この地は、堀込貝塚緑地の中にあり、
周りの畑には貝殻片や縄文土器のかけらが多数みられる。
富士塚の周りは巨木が多数富士塚を守るようにそびえたつ。

 

| - | 13:20 | comments(0) | trackbacks(0) | 『ビルドクター』福田紀之
藤崎の富士講  その1

習志野市の菊田公民館で2回にわたり「藤崎の富士講」の講座へ参加しました。
嘉永7年(1854)の初穂控え帳によると、
習志野市内では当時7つの村で「富士講」が存在していたが、
現在も残って居るのは、「藤崎」のみです。

 

富士講は1300年前の奈良時代に富士山を信仰の対象とし、
約300年前の江戸時代中頃から盛んになり富士登山をするようになった。

富士講の行事として
富士講の集まり(オガミ)・・基本月1回、祭具を設け、
         お焚上げを行い、その後「オガミ」を行う。オガミが終わると直会。

浅間様の掃除(初ザル)・・・浅間様(富士塚)や関連石碑の周りを清掃し、
         新たなお札を奉納。

富士登山・・・・・・・・・・旧暦6/1〜7/21に、居住地から富士山麓の御師の家まで
   甲州街道のルートで御師の家で出向を受けて、
         登山の案内をする強力達の案内で富士登山をする。

浅間様の祭り・・・・・・・・旧暦6/1(新暦7/1)富士山の開山を祝う。
         尚、講演の後に、折り紙で折った「富士山」がお土産として頂きました。

 

| - | 13:13 | comments(0) | trackbacks(0) | 『ビルドクター』福田紀之
文化財よ永遠に

京六本木にある「泉屋博古館分館」で開催中の
文化財よ永遠に」を見て来ました。


ここでは、国宝・重要文化財・重要美術品など、
文化財修復事業に拠った文化財の一部が展示されていました。


世界最高水準の修復技術によって蘇った名作を鑑賞しました。
色鮮やかな作品は、当時の作品の様でした。

| - | 14:20 | comments(0) | trackbacks(0) | 『ビルドクター』福田紀之
第6回 悠々会  その3

源頼朝の墓(法華堂跡):頼朝の墓に通じる石段の左手に
     白幡神社と法華堂跡の石碑がある。
     元々白幡神社には頼朝の持仏堂があり、
     正治元年(1199)に急死した際も遺骸はここに葬られた。
     翌年の頼朝1周忌以降は、大蔵法華堂と呼ばれた。
     明治初年の神仏分離令に伴い法華堂は撤去されたが、
     明治5年に1.7mの盛土をして白旗神社が再建され、
     改めて頼朝の霊を祀る。神社右脇の石段を上がると法華堂がある。
     玉垣に囲まれた約1.9mの5層の石塔が頼朝の墓とされ、
     安永8年(1779)に頼朝の子孫と称する
     薩摩藩第8代藩主・島津重豪が建立したもの。

 

三浦一族の墓:三浦氏は幕府で北条氏と肩を並べる有力御家人であった。
     頼朝の死後、北条氏は梶原・比企・畠山・和田など
     有力御家人を次々に滅亡させ三浦だけが残った。
     宝治元年(1247)5代執権・時頼軍の不意打ち屋敷を焼かれ、
     三浦方は頼朝の法華堂に立て籠り、一族270人が自刃した。

 

大蔵幕府跡:鎌倉幕府は源氏3代と北条執権時代と合わせて
      約153年間続いたが、幕府の場所が2度移転されている。
      大蔵幕府は、治承4年(1180)に頼朝が最初に屋敷を構えた場所。
      敷地の中央に母屋があり、御所で政務が行われた。頼朝死後も、2代頼家
      3代実朝、尼将軍政子まで約46年間、武家政治の中枢機能を果たした。

 

宇都宮辻子幕府跡:若宮大路の鎌倉彫会館横の小路を入ると、
      正面に宇都宮稲荷社がある。
      この辺りが2番目の宇都宮辻子幕府跡で、稲荷前に石碑がある。
      宇都宮の名の由来は、初代執権・時政の娘婿の御家人・宇都宮頼綱の
      屋敷があったことが由来。
      政子の死後、3代執権・泰時は嘉禄元年(1225)幕府をここに移した。
      この御所に9歳の公家将軍・藤原頼経が住んだが、
      政治の実権は泰時が握った。この幕府は12年後には若宮大路に移る。

 

若宮大路幕府跡:嘉禎2年(1236)僅か12年で終わった
      宇都宮幕府からこの地に移動。
      元弘3年(1333)に北条政権が倒れ
      鎌倉幕府が滅亡するまで約98年間ここで幕政が行われた。
      作家・大佛次郎旧艇の黒塀が尽きる辺りに石碑がある。

| - | 14:09 | comments(0) | trackbacks(0) | 『ビルドクター』福田紀之
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